“自ら選び取る”ということ


世間せけんわれる“自己責任じこせきにん”という(いや)ぁ~な言葉ことばがあります。この言葉は「尻拭(しりぬぐ)いは自分じぶんでしなさい。わたしたちは責任をわない」という排除(はいじょ)意味いみ使つかわれがちです。これは、“自業自得じごうじとく”と同義どうぎとして使われています。しかし、すくなくとも人権じんけん文脈ぶんみゃくとらえるのであれば、本来ほんらいの意味は「自分じぶんのことは自分でめる」という本人ほんにん自由意志じゆういし・自己決定けっていについての言葉です。英語えいごではResponsibilityレスポンシビリティいますが、Responseレスポンス=応答おうとうというのは「かみびかけに応答おうとうする」ということが本義ほんぎです。

「神の言うことだから無批判むひはんれるべき」とおもわれがちですが、それは盲信もうしんであって相互そうごのやりりである応答ではありません(本義としてもそのような意味として使われていません) ひとはロボットではないので、他者たしゃからの呼びかけをどう受けめるのか、他者からの呼びかけにどうこたえるのか、という行動こうどう以前いぜんの意志がResponsibilitiyの本質ほんしつとなります。そのため、“自己責任”を行使こうしするときには家族かぞく友人ゆうじん同僚(どうりょう)専門家せんもんかから意見いけん(つの)り、またはかれらからの一方的いっぽうてき痛烈(つうれつ)批判(ひはん)(あま)んじて受けながら、物事(ものごと)みずかえらび取るのです。

では、わたしたちに自分で決める自由があるとして、わたしたちはきちんと選び取れているのでしょうか。「できているかどうか」はとてもになるところだと思います。じつは、自己責任とは「ただしいものを選び取れたかどうか=ぐみになったかどうか」という“自業自得”のような結果論けっかろんではありません。「“自ら選び取ったことが、自分にどのような結果をもたらしたかを見届みとどける責任がある”ことを受け入れる﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅」という「心構こころがまえをつこと=応答すること」なのです。そのため、「できているかどうか」を自己責任の評価ひょうかとはするべきではないでしょう。

結果のしは自己責任によるものであったかどうかではなく、集団しゅうだん社会しゃかい全体ぜんたいとして利益りえき(ベネフィット)と利益(リスク)を正しく見積みつもれていたかどうかといった評価から考慮こうりょ反省はんせい改善かいぜんするべきものです。そして、その不利益は自己責任の行使者個人に責任を負わすのではなく、集団・社会全体がになうものです。なぜなら、自己責任論じこせきにんろんげられるような状況じょうきょうは、実は社会全体にとって不利益がしょうじている、また社会がその問題に対応たいおうできていないということであり、自己責任論は社会問題を自己責任の行使によるものとして社会の責任を矮小化わいしょうかしているにすぎないからです。自己責任論がさけばれるようになれば、そこには社会全体にとっての不利益が発生しています。それらは解決かいけつすべき社会問題として、福祉ふくし教育きょういく・社会制度せいど・インフラの整備せいびでいかに社会全体の不利益を最小化さいしょうかするかが重要じゅうようなのです。

わたしはこの視点してんこそ子どもにたいするおや子育こそだてのありかたのように思います。子育ては、親が自ら選び取った子どもへの子育ての結末けつまつを受け入れつづける(いとな)みでしょう。それは親自身じしんき方だけでなく、子の生き方まで担う、非常ひじょうながくるしい自分自身とのたたかいとなります。だからこそわたしたち保育園は、親・家庭かてい一人ひとりで思いなやまないように、社会としてかかわりっていけたら良いなと思っています。

(2023年7月 再掲さいけいにあたり加筆修正かひつしゅうせいしました)